世界に広がる浮世絵の歴史と広がり

世界に広がる浮世絵の歴史と広がり

長きにわたり浮世絵が人々に愛好された理由 それは、庶民の興味に寄り添いながら表現や様式を発展させ、当たり前のように美しさを優先して制作してきた作り手の柔軟な創造力と圧倒的な美意識の高さにあった。

浮世絵のはじまり

大衆メディアとして愛された「浮世絵」

(*1)

江戸時代に成立し、広く江戸の大衆メディアとして当時の庶民に愛された「浮世絵」。そのはじまりはおよそ17世紀後半と言われている。白黒の明快なコントラストに鮮やかな色彩をまとった浮世絵は、260年以上も続いた天下泰平の世ならではの開放感にあふれ、明朗闊達な江戸庶民の気性と当時の社会風俗が生き生きと描かれている。
(*1)端午の節供/歌麿(喜多川哥麿/喜多川歌麿)
「憂世」から「浮世」へ


子ども獅子舞
春信(鈴木春信)

江戸時代以前、長く戦乱の世が続いていた時代の「うきよ」といえば「憂世」であった。つまり、浄土(あの世) に対して憂世(この世)はつらくはかないもので、移ろいやすい世の中といった意味である。しかし、徳川幕府が開かれ江戸の地に発展と安定がみえはじめると、当時ゆとりをもった町人を中心に “浮き浮きと毎日を暮らそう”という明るい意思が芽生え、「うきよ」は「浮世」という享楽的な言葉に変化していった。

次第に、「浮世」が当時の世相、風俗、風習、考え方を肯定的にとらえる当世風・今様という意味をもつようになり、そのことが画家たちの創作活動にも影響を及ぼしていった。それまで古くは公家や武士などの富裕層を相手に描いていたプロの画家たちが、人々の日常生活をとらえた近世初期風俗画を描くようになり、それが楽しみを味わう気分を反映した「浮世絵」へと展開していったのである。

時代が生んだ浮世絵


嵐吉三郎
北洲(春好斎北洲)

浮世絵の主題は、過去や未来よりも、今(現世)を描くことにある。そのため、浮世絵師たちは題材に時代の最先端をいく風俗や話題を追い求め、常に趣向を凝らした描写で人々を喜ばせた。江戸時代の庶民の楽しみといえば「遊び」と「芝居」。これが、浮世絵の中で「美人画」と「役者絵」として描かれ、いわば流行ファッション誌、歌舞伎役者のポスターやブロマイドの代わりとして、浮世絵は瞬く間に庶民に浸透していった。

浮世絵はまた、地方では「江戸絵」とも呼ばれていた。江戸を訪れた人々が、故郷に帰る際の土産物として、美しく、軽くてかさばらない浮世絵を好んで選んだことから、江戸以外の地域にも浮世絵の存在が知られるようになった。一方、江戸の人々は、浮世絵を「紅絵(べにえ)」、「錦絵(にしきえ)」の名で呼び親しんでいた。

※紅絵……紅を中心に、数色の顔料(絵の具)を使い筆で墨摺(すみずり)版画に彩色した素朴な筆彩版画
※錦絵……1765年(明和2年)以降の浮世絵版画の総称。多色摺の色彩豊かな木版画

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浮世絵の発展

浮世絵の始祖、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)
最初の浮世絵師は、「見返り美人」で知られる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)であろう。師宣は房州(現在の千葉県)の生まれで、若くして江戸にわたり、幕府や朝廷の御用絵師たちの技法を学んだ。独り立ちした当初は無記名で墨摺による版本の挿絵を手がけていたが、その後徐々に頭角を現し、版本のほかにも挿絵から独立した墨摺の一枚絵や肉筆画の分野で精力的に活動をし、浮世絵発展の礎を築くこととなる。
黒摺りから多色摺り(錦絵)へ


折り紙遊び
祐信(西川祐信)

浮世絵は、江戸初期に絵入本(版本)の挿絵から独立して描かれるようになった墨摺一枚絵にはじまる。これが町に出回り、庶民の観賞用として広がった。やがて、墨摺絵では飽き足らなくなった人々がより豊かな色彩表現を求めるようになり、それに応えるべく、墨摺絵に彩色するいくつかの技法が生まれたが、いずれも筆による彩色であったので量産はできなかった。


やつし 八景勢田夕照
重政(北尾重政)

江戸中期になると「版」による彩色がはじまる。色版を摺る際に色がずれないよう、版木に目印となる「見当」をつける工夫がなされ、これによりカラフルな多色摺の版画が量産できるようになった。10色以上もの色版木を重ねた豪華な多色摺版画も登場し、絹織物の「錦」に匹敵するほどの美しさを誇ったことから「東錦絵(あずまにしきえ)」と呼ばれ、江戸の新名物になった。

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国内での浮世絵の広がり

広告媒体として機能した浮世絵

(*2)
(*3)

広告メディアがほとんどなかった時代、観賞用の浮世絵が実用的な役割を兼ねる ことも多々あった。たとえば、今でいう新聞の折り込みチラシに相当する「引き札(ひきふだ)」や、画中に化粧品やその商品名を描き入れ宣伝した浮世絵がある。また、流行のファッションに身を包んだ役者絵や美人画は、現代のファッション誌のような役割を果たしていた。風景画も、人気の観光スポットを紹介する旅行雑誌としての一面をもち、「東海道五捨三次之内」(歌川広重)はその一例にあたる。このようにして浮世絵は、時代の最新情報を伝える広告媒体として、広く国内に普及した。
(*2)双筆五十三次 日本橋/豊国:三代・広重(歌川豊国:三代・歌川広重)〈合作〉
(*3)東風俗 福つくし 呉服〈ごふく〉/周延(楊洲周延)
浮世絵のプロデュース

浮世絵の版画は、今でいう出版社にあたる「版元(はんもと)」、版下絵を描く「絵師」、版木を彫る「彫師」、その版木に色をのせて摺る「摺師」との共同作業で完成する。とかく絵師ばかりが注目されやすいが、実際には、版元の企画力、彫師・摺師の技術が作品の売れゆきを左右していた。そもそも営利目的の販売品なので、絵師・彫師・摺師の職人の起用、作品のテーマ設定、使用する「彫」や「摺」の技法まで、当時ほとんどが版元の一存に委ねられていたという。したがって浮世絵は、一作家が創り出した純粋な美術品ではなく、商品あるいは工芸的な絵画作品であったといえよう。

江戸の本屋さん「絵草子屋」

18世紀初頭には人口が100万人を超え、世界有数の大都市へと発展を遂げた“大江戸八百八町”。浮世絵版画の誕生とともに、それまで上方(現在の大阪・京都を中心とする地域)に先行されていた江戸の出版界も独自の展開をみせることとなる。


今様見立士農工商商人
豊国:三代(歌川豊國:三代/歌川豊国:三代)

当時、学問的な書籍を扱う江戸の書物問屋のほとんどは上方の店の支店か、上方資本であった。一方、浮世絵に関する出版は絵草子問屋(地本問屋)の領域とされ、江戸で作って売る大衆娯楽本の「地本(じほん)」を扱った。この絵草子問屋が多く集まる日本橋を中心に、江戸一円に点在していたのが販売だけを扱う小売店の「絵草子屋」である。庶民が気軽に浮世絵を購入できたのも近所に絵草子屋があったからで、この時代の浮世絵人気を大きく後押ししたといえる。

浮世絵の流派

浮世絵の流派は、時代の流れとともに大きく以下の4つに分類される。

  • 菱川派

    伽噺 桃太郎
    春宣(菱川春宣)

    浮世絵初期、一枚絵として多くの浮世絵肉筆画を残した浮世絵の祖・菱川師宣。その画風に憧れた者が弟子となり菱川派を形成した。

  • 鳥居派

    玉花子の席書
    清長(鳥居清長)

    元禄の初めより現代まで300年以上続く唯一の流派。初代・清信をはじめ代々芝居小屋の番付を手がけた流派で、役者絵の基礎を作った。

  • 歌川派

    風流てらこ吉書はじめけいこの図
    豊国(歌川豊國/歌川豊国)

    歌川豊春にはじまる浮世絵の最大流派。幕末から明治にかけて美人画、浮絵をもとに一大勢力を誇った。

  • 勝川派

    正一位三囲稲荷大明神
    春章(勝川春章)

    開祖は勝川春陽。役者の顔を描き分ける意識のなかった鳥居派の役者絵に一石を投じ、より写実的な役者の似顔絵様式を確立した。

浮世絵はいくらで買えた?

ところで、当時の浮世絵はどのくらいの値段で買えたのだろうか?

江戸時代の物価は前期・中期・後期によって変動するが、小判1枚=金1両=4,000文に相当し、現在の貨幣価値に換算すると約8万円と言われる。つまり、1文は80,000円(1両)÷4,000(文)=約20円に換算でき、「二八蕎麦」は2×8=16文で食べられていたので、かけ蕎麦一杯が約320円ということになる。

浮世絵の流通が安定した江戸後期、一般的な多色摺版画サイズの大判錦絵(縦39cm×横26.5cm)は20文(約400円)程度で売られていたという。細判(縦33cm×横15cm)の役者絵は8文(約160円)、人気が下がると3~6文(約60~120円)の安値で売られていた。また、最初から購入しやすい金額になるよう、あえて小さいサイズで作られた浮世絵も多数あった。現代人の金銭感覚におきかえるなら、500円玉でお釣りがくるコンビニスイーツのような手軽さだったといえばイメージしやすいかもしれない。

  • 大判(縦39cm × 横26.5cm)=20文(約400円)
  • 細判(縦33cm × 横15cm)=8文(約160円)
浮世絵の判型とサイズ

浮世絵版画のサイズは、時代や用紙の種類〈A〉によって異なり、錦絵が誕生した明和期 (1764~72年)以降、用紙は大奉書を使うのが一般的であった。サイズは、〈B〉のような判型を作品によって使い分けていた。

〈A〉用紙のサイズ(目安)

用紙の種類 サイズ
丈長奉書 縦72~77cm×横52.5cm
大広奉書 縦58cm×横44cm
大奉書 縦39cm×横53.5cm
中奉書 縦36cm×横50cm
小奉書 縦33cm×横47cm

〈B〉浮世絵の判型

判型 サイズ 備考
大判 縦39cm×横26.5cm 大奉書の縦二つ切(江戸後期の浮世絵の 最も一般的なサイズ)。特に縦2枚続きの 浮世絵のことを「掛物絵」と呼んだ。
中判 縦19.5cm×横26.5cm 大判の横二つ切
小判 縦19.5cm×横13cm 大判の4分の1
大短冊判 縦39cm×横18cm 大奉書の縦三つ切
中短冊判 縦39cm×横13cm 大奉書の縦四つ切
小短冊判 縦39cm×横9cm 大奉書の縦六つ切
色紙判 縦20.5cm×横18.5cm 大奉書の6分の1
長判 縦19.5cm×横53.5cm 大奉書の横二つ切
柱絵 縦72~77cm×横52.5cm 丈長奉書の縦三つ切
縦72~77cm×横13cm 丈長奉書の縦四つ切
細判 縦33cm×横15cm 小奉書縦三つ切
縦16cm×横47cm 小奉書横二つ切

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海外にわたり、大きく開花した浮世絵

西洋美術に大きな影響を与えた浮世絵
日本を代表する美術として、浮世絵は西洋に大きな影響を与えた。1867年にフランス・パリで開催された万国博覧会への出品にはじまり、19世紀末のヨーロッパには浮世絵に代表される日本の伝統芸術の一大ムーブメントが巻き起こった。これがいわゆる「ジャポニズム」である。日本では浮世絵が価値ある美術品であると意識すらされなかった時代で、20世紀のはじめにかけては特に多くの浮世絵が海をわたった。このジャポニズムの流れは19世紀半ばから20世紀初頭まで半世紀以上にわたって展開し、印象派などの西洋絵画や工芸品に大きく影響を及ぼしたのである。
包装材からのスタート

実は日本が鎖国していた江戸時代、すでに浮世絵は海外にわたっていたという。当時、唯一外交関係にあったオランダを介して、海外に輸出されていた漆器や陶磁器などの“包み紙”に古い浮世絵が使われていたからである。後に、それが評判となって美術品としての浮世絵版画を買い求める交易者も出た。

若き日の印象派巨匠たちが注目

こんな面白いエピソードもある。ある日、日本から届いた荷物の梱包材に使われていた葛飾北斎の作品を友人宅で見かけたヨーロッパの芸術家が、自ら貴重品を手放してまで同じ作品を手に入れ、友人で画家のモネ、マネ、ドガなどに見せて回ったという。

また、筋金入りの浮世絵好きで知られるゴッホは熱心な収集家でもあり、現在、オランダ・アムステルダムにあるゴッホ美術館には、ゴッホと弟テオが所有していた計477点の浮世絵が収蔵されている。このように、浮世絵は印象派を代表する若き日の巨匠たちの心を次々と魅了し、画家たちは浮世絵に学ぶことによって新しい絵画の可能性に目覚めていった。

国際的な浮世絵版画商・ 林忠正の功績

ジャポニスムを語る上で外せない重要な人物に、パリで画商として活躍し、浮世絵の普及と啓蒙活動に努めた日本人・林忠正がいる。彼はジャポニスムに沸く現地をリアルタイムで体験し、評論家や画商、そしてモネ、ドガら印象派画家とも幅広い交流をもち、彼らの日本に対する理解を大きく手助けした。

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公文と子ども浮世絵

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