美人画や役者絵のなかでも人物の顔を大きくとらえた大首絵は、髪の流れるような描線や生え際の美しさを見どころの一つとしていた。そこに美しい表情を生み出そうとした彫師の強いこだわりが生んだ技法が「毛割」である。生え際を繊細に表現する毛割には1mmに2本ほどの髪の毛を表した細かい彫もあり、まさに超絶技巧の域である。この毛割は彫師の中でも「頭彫」と呼ばれる師匠クラスの職人しかできない最も難しい彫の技法とされた。
浮世絵ができるまで
浮世絵制作最大の特徴は、出版社にあたる版元の指示のもと、絵師、彫師、摺師の分業体制にある。特に、錦絵のような多色摺になると、彫と摺に今では考えられないほど緻密な手間ひまをかけていた。絵師がイメージした世界を具現化するには、彫師、摺師の名人芸ともいえる高い技術が不可欠なのである。
絵師は、版元の依頼を受けて下絵となる「画稿(がこう)」という下絵を墨一色で描き、次に決定稿となる「版下絵」を制作する。これをもとに彫師が「主版(おもはん)」というモノクロの版を彫り、「校合摺(きょうごうずり)」が摺られると、絵師が「色さし(配色の指示入れ)」を行う。その後の摺には絵師も立ち会うことになる。これは全体の色の構成、細部の彫の指示など、錦絵の完成図が絵師の頭の中にしかなかったからであろう。
彫師は、版下絵から主版を彫り、絵師の「色さし」に沿って「色版」を彫る。浮世絵では顔や頭髪の彫に最も高度な技術を要したが、絵師による版下絵は簡単な線で描写された程度である。髪の毛の1本1本に至るまで、細部の彫については彫師のセンスと力量に委ねられていた。
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完成した主版を摺って数枚複写したもの(校合摺)に絵師が色ごとに朱色で指定していきます。
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絵師の作成した校合摺を版下絵と同様、板に貼って色版を彫ります。
摺師は、彫り終えた版木を紙に摺って浮世絵を完成させる。全体のバランスを計算して版木や紙、絵の具などを微妙に調整することが摺師に任せられた重要な役割だった。一般的には、色版のずれを防ぐため最初に基準となる主版を、次に色版の順に摺り重ねた。色版は仕上がりの美しさを優先し、摺り面積の小さい色の順に、薄い色から優先して摺られた。
東都名所女夫尽の内上野山内女夫杉
貞虎(五風亭貞虎/歌川貞虎)
摺の技法の一つに、版木に絵の具をつけずに強く摺って凹凸を出す「空摺」がある。たとえば、雪や綿など白くふっくらとしたもの、布やその文様、輪郭戦などに立体感をもたせるために、今でいうエンボス加工(浮き出し)の表現を施した。凹凸のある高級紙には、馬連を使わず、摺師が肘などを使って強い圧力をかけながら摺ったという。また、布目の凹凸を表現するため、色版に布を貼って摺る「布目摺」という技法もある。
芳年漫画 浦嶋之子帰国従龍宮城之図
芳年(月岡芳年)
濃い色から薄い色へと、次第にぼかしていくのが「ぼかし摺」である。特に、海や空などを描写する風景画の分野でぼかしの技法が多用された。技法には、絵の具を刷毛ではいてぼかして摺る「拭きぼかし」、絵の具の自然な広がりに任せた「あてなしぼかし」、型紙をあてて霧吹きのような道具で絵の具を吹き付けてぼかす「吹きぼかし」、ぼかす部分のみ版木の彫の角を落とした「板ぼかし」などがある。
風流子宝合 大からくり
歌麿(喜多川哥麿/喜多川歌麿)
背景の地を一色で摺ることを「地潰し」という。一色をムラなく均一に、広範囲にわたって美しく摺るという、一見シンプルなようでいて実は非常に難易度の高い技法で、腕のある摺師でしか叶わない技であった。特に、濃い色合いの摺を得るには何度か絵の具を付け直しては摺るという作業が必要で、もちろん色のずれは許されない。この作業は「掛け直し」とも呼ばれ、特に熟練を要する技術だった。